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バヤズィト1世

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1389年のコソボの戦い直後、父ムラト1世がセルビア人の貴族によって暗殺された時、随行していたバヤズィトはすぐさま同行の弟たちを殺害し即位した。

即位後は積極的に外征を進め、セルビア・ボスニア・ワラキアなどを服従させ、バルカン半島の大半を支配下に収める。

1391年にはコンスタンティノープルを包囲したことからハンガリー王ジギスムントを中心とする十字軍の侵攻を受けたが、ニコポリスの戦いでこれを破った。

しかしアナトリアに割拠するトルコ系の諸君侯国を次々に併合したことから、1400年、アナトリアの諸勢力が東アナトリアに進出してきたティムールを頼ることになる。

ティムールはバヤズィトに対し、「アナトリアの諸君侯に旧領を返還する」よう要求した。

このためオスマン帝国は、ティムール朝と対立するに至った。

1402年バヤズィトは、アンカラの戦いでティムールに敗れて捕虜となり、翌1403年に獄中で失意のうちに病死した。

なおバヤズィトの死に関しては、自殺説や殺害説もある。

その後バルカンの辺境は、帝国に服属していた諸侯が離反。

アナトリアではバヤズィトの滅ぼした諸君侯国が、ティムールの手で復興された。

オスマン領に残されたムラト以前の支配地域も、エディルネに拠ったバヤズィトの長男スレイマン・チェレビーが、ヨーロッパ側を支配。

アジア側は、その弟たち、アマスィヤに拠ったメフメトとブルサに拠ったイーサによって分割支配する事となった。

オスマン帝国の分断と空位の時代は、1413年、バヤズィトとともにティムールに拘禁された後解放された、末弟ムーサを含めた四兄弟の争いが、メフメト(1世)の勝利に帰すまで続いた。

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