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ヨハネス8世パレオロゴス

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1414年
結婚

1422年
7月 ヨハネスと重臣達の強硬策は完全な失敗に終わった。ムスタファは誓約書まで出して牢を出たにも拘わらず、ヨーロッパの君主となった途端にあっけなく約束を破棄した。東ローマ側はそれ以上介入する手段を持たず、ムスタファがムラトに打ち破られていく状況を座視するしかなかった。ムラトはこの競合者を処刑した後、その矛先を不実なコンスタンティノポリスに向けた。、彼は大軍を擁してコンスタンティノポリスを包囲する。しかし帝都は城壁に守られて持ちこたえ、その間に復帰したマヌエル2世が巧みな外交政策で小アジアの反乱を誘発しムラトに兵を退かせる事に成功する。しかし更に困難は続き、翌1423年には帝国の二つの地方領土、テッサロニキとモレアス専制公領がオスマン軍の侵攻を受け、テッサロニキは帝国から失われた(1423年−1430年、ヴェネツィア共和国領、1430年以降オスマン領)。マヌエル2世はオスマンとの休戦・和平交渉に奔走し、漸く1424年に和平が成立する。それは臣従と多額の貢納金支払いという重い代償と引き替えの和平であった。

1423年
7月 帝国の二つの地方領土、テッサロニキとモレアス専制公領がオスマン軍の侵攻を受け、テッサロニキは帝国から失われた(1423年−1430年、ヴェネツィア共和国領、1430年以降オスマン領)

1425年
父マヌエルが死去し単独統治を開始したヨハネスは、当初は自らの失敗を考慮して慎重に内政の充実に努めた

1426年
8月 故国イタリア・モンフェラートに帰国し、残る生涯を修道女として過ごした

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