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国定忠治

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1819年
5月 死去しており、忠治は青年期に無宿となり家督は弟の友蔵が継ぐ

1834年
忠治は伊三郎を殺しその縄張りを奪うと、一時関東取締出役の管轄外であった信州へ退去し、上州へ戻ると一家を形成する(『赤城録』では、『水滸伝』に模して日光円蔵ら忠治股肱の子分を紹介している)

1835年
玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化し、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する

1841年
忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌天保13年に忠治は帰還し主馬を殺害する(この際に忠治は子分に「洋制短銃」をもたせている)

1845年
5月 死去している

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