|
堀越秀の像銘并びに序
大正戊午(七年)九月、銅鋳堀越秀演技の像成る。堀越氏は倡優名閥、世に市川團十郎と称す。秀は其第七世第五子にして天保戊戌(九年)十月十三日、江戸木挽街に於いて生まれ、弱冠にして、技を以て天下に名あり。明治甲戌(七年)七月、称を襲いで九世團十郎と曰う。癸卯(三十六年)九月十三日、茅ヶ碕の別業にて病歿す。享年六十有六。事は伊原敏郎撰の伝中に具(つら)なる。秀は壮にして中興の運に遭い、庶事維新に目睹し、心に期する所有り。誓って倡優の陋習を脱せんと欲し、是に於いて己を縄(ただ)すこと謹廉にして遂に能く士林の歯(なら)ぶ所と為る。豈往くにおいて卓(すぐ)れ、来るに於いて赫らかなるものと謂わざる可けん邪(や)。像の成りしは、秀の即世十五年後に在り。其嗣福三郎、陶庵西園寺侯の書を跌前に請う(犬丸註:「…請い、又余に銘を嘱す」であろう)。余嘗て秀と相識り、其人と為りを喜ぶ。且謂う、倡優の技は卑しと雖も、教化に関わり有る也と。乃ち之が銘を為くりて曰く。
優孟、九世、衣冠を伝う。名は天下に噪し、十郎團。 (目篇に旱 カン) 目隆準にして顔に丹を塗る。矮躯亦長身に作りて看る。其止まるや端重邱山の安きごとく。其動くや( しんにょうに山に而 セン )迅?G顎の搏(はう)つごとし。音吐 (勹に言 コウ)々 、金盤を扣(たた)き、一呼堪息すれば百夫讙(よろこ)ぶ。奄忽として云(ここ)に亡く、妙技殫(や)む。海 (サンズイに筮 ゼイ) の秋陰、柏棺を蓋(おお)う。惟見る遺像の江干に立つを。千載の兒女永歎を増すのみ。
鴎外森林太郎撰
不折中村 ?ニ太郎 書
建設者 追善会委員
門下 一同
|